藤子不二雄Aのプロフィール
曹洞宗49代目住職の息子として、富山県氷見郡氷見町(現:氷見市)の光禅寺という古刹に生まれるが、1944年に父を亡くして高岡市に転居し、転入先の高岡市立定塚国民学校(現・高岡市立定塚小学校)で藤本弘と知り合う。小学校時代から漫画家を志し、富山県立高岡高等学校在学中、1951年に毎日小学生新聞でデビュー。
高校卒業後、1952年に、伯父が専務を務める富山新聞社に入り、学芸部と社会部で似顔絵やインタビュー記事を担当。1954年、藤本に誘われる形で新聞社を退社。藤本と共に漫画家となるために上京する。後がない藤本と違って(藤本は製菓会社をすぐに退社した)、安定したサラリーマン生活がある安孫子は新聞社に未練があったと語っており、好意を抱いていた後輩社員がいたのもその理由である。この藤本の誘いを母に相談しており、母の言われた通りにしようと思っていたが、予想外に「好きにしなさい」と言われ、悩んだ挙句に夢の道に進むことを選んだ。退社の件を、当時社長になっていた伯父に話すと激怒されたという。
その後上京して、連載が飛び込む人気作家になるものの、里帰りと共に連載8本落とすという失態をしてしまう。
その後、『オバケのQ太郎』、『忍者ハットリくん』、『魔太郎がくる!!』などのヒット作にめぐまれる。厳密には2人の合作によるヒット作は『オバケのQ太郎』が最後であり、これ以降は藤子不二雄名ではあっても、そのほとんどはどちらかの単独作品である。1987年にコンビを解消し、藤子不二雄Ⓐとして活動するようになる。コンビ解消後は映画『少年時代』をプロデュースするなど多彩な才能を見せる。詳しくは藤子不二雄#来歴を参照。
文章にも優れ、『二人で少年漫画ばかり描いてきた』などエッセイに才能を発揮している。これらはコンビ時代から安孫子の執筆であることを明記してあるものが多い。
2015年、ジャンプスクエアの連載『PARマンの情熱的な日々』を12月号をもって休載することを発表。
2022年4月7日、川崎市内の自宅にて死去。
藤子不二雄のA・F違いは?
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藤子不二雄Aのコンビ解散理由は?
その理由として「この辺で、二人三脚のヒモをほどいて、それぞれの足で歩いてみたらどうか、と話し合いました。新しい展開としてそれぞれやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと」とした。藤本は自身が入退院を繰り返したことから「二人三脚でくくっていたほうの足が、かすかにヒリヒリしていた。ひもを解いてみれば、何か新しいことやれるのではないか」とし、安孫子は「いままでのように二人のペースを合わせるのは無理な年になってきた。漫画だけでなく、ぼくも文章なども書いてみたいが、藤子不二雄の名前では勝手なことやれない」とした。このあいさつ状で、これまで合作とされてきた各作品がそれぞれ分担で描いていたことを公式に明らかにした。
ウィキペディア
藤子不二雄A藤子・F・不二雄)の代表作品やキャラクター
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藤子不二雄A(藤子不二雄Ⓐ)の代表作品やキャラクター
『オバケのQ太郎』(共作)
『忍者ハットリくん』
『怪物くん』
『プロゴルファー猿』
『魔太郎がくる!!』
『笑ゥせぇるすまん』
『まんが道』
藤子不二雄Aの結婚
1966年、(「オバケのQ太郎」がヒットして、売れっ子の漫画家として世に出始めた頃)静岡の会社社長令嬢だった、2歳年下の和代さんと結婚されています。
藤子不二雄Aの自宅
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藤子不二雄(藤子・F・不二雄)の死因は肝不全
藤子不二雄IDの現在
まとめ
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